藤井厳喜「這い上がれない未来」光文社〔2005.12〕


 
  国家破産が来る、そして超・格差社会が来るぞ、という本です。なぜか?要するに日本は道を誤ったから、だそうです。それはどうしてか。著者に拠れば、明治は良かったけれども、高等文官試験制度というのが悪くて、実践無しの秀才がペーパーテストだけで出世するような仕組みになり、学歴エリートがまわりを固めて、机上でだけ考えて太平洋戦争に負けたというわけです。しかも戦後もそれは温存されて(1940年体制ですね)官僚指導型で経済成長に邁進した。民間企業内もサラリーマン社長が官僚のように問題を先送りしてきた。そうこうするうちにグローバル経済となり激しい競争社会となり、競争力の無い国になった、というわけです。これは判りやすいです。更に、「ゆとり教育」などという愚行もそれを促進していると解明してくれています。そしてそこから希望も述べられていて、いったん全員で「下流」に落ちれば立ち直れるぞ、とあります。一種前向きな話になります。その時に読者はどうすればよいかを説いています。箇条書きであれはしろ、これはするな、とかなり具体的に書いてあります。


  なかなか読みやすくて迫力がある本です。良い本だと思います。
  
  
  さて、その中に「下流マインド」を持つなというのがあります。ここで「ハウツー本・成功本」を読むのは「下流マインド」だ、とあってビクッときました。


  実は私は方法について書いてある本(以降「方法本」と言います)が結構好きです。ところがこれは「下流」の所業であると書いてあるのですね。「あなたは、負けが込んだとき、こういう本を読み、慰めにしているのである」(p.266)とまで書いてくださっています。嗚呼。この格差社会下流に落ちてゆく所業であればこれは慎まなければならないかもしれないですね。(しかし…私はそもそも今何流なのかな。もう下流なのかもしれませんが。)
  

  なぜ「下流マインド」なのか。「いつも自分探しをしているがゆえに、下流には『本当の自分』がない。それで、常にうまくいっている人間、成功している人間、注目されている人間のマネをしてしまいがちになるのだ。しかも、それを手っ取り早くやろうとする。」(p.260)それは「階級過敏症」のせいだということだそうだ。つまり「『階級過敏症』の『中流』は、いつも「どうすれば上に行けるか、どうすれば下に見られないかと悩んでいる。それでこういう本につい手を出しがちだ」(p.259)だからだそうです。



  私が「方法本」が好きなのは、別に「自分探し」のためではないんで安心しました。それは私の趣味なんですね。面白いからですね。それに仕事にも使える場合もありますしね。趣味と実益を兼ねています。「自分探し」というのはどういうことか判然としませんが、とりあえず今のサラリーマンで現時点、とりあえず明日はやる事があります。
  

  方法というのは、なかなか教われないものだから本に書いてあることからなにか吸収できないものかと考えて居るからです。方法は自分で編み出すものだ、と言われても、無から有が生じるわけでもない。やはり見て盗むとか対話して明かしてもらうといった手段にならざるをえない。ずーっと方法を探して、何かをヒントに着想するということもありそうではある。(少年野球漫画における魔球着想の契機は大抵そういうものだったように記憶しております)だが、それもなかなか限りがありますよねえ。

  そこで「方法本」とは会話するような感覚で読みますね。
  
  方法を人に説明している本ですからね。まず人に説明するためにこの人はどのように方法を語るのかという方法…(メタな話になりそう)その語り口が好きなんですよね。なかなか酒を飲んで語るようなネタでもないし。やはりある種の自慢話が香っている方が読む方も面白いですしね。
  
  そもそも「自分探し」などしている人は「方法本」は役に立たないかもしれないですね。方法というのは何かをするためにある、目的があって方法なのであって、目的が無い人には方法は不要なのでしょう。自分探しというのは、たぶん、目的を探していることなのでしょう。とすれば「方法本」は役に立ってないように思えます。


  というわけで、なんとか自分の趣味を「下流マインド」じゃないぞ、と思い込むことにします。ふー。  
  
  だいたい「これはひょっとして『下流マインド』かもしれない、ぞ」などとびくびくしていること自体が『下流マインド』ですよねえ。