小此木啓吾『「ケータイ・ネット人間」の精神分析朝日文庫[2005.1]原書は『「ケータイ・ネット人間」の精神分析−少年も大人も引きこもりの時代』飛鳥新社[2000.10]


 web2.0に先立つこと数年…か、どうかわかりませんが、著者小此木啓吾さんは本書で「1.5」という概念を発表されています。

 本書のメッセージは「1.5」、ということです。ここでの「0.5」とは「半ば人間扱いされたり擬人的な機能を備えている」(p.119)のいう意味だそうです。例えばファミコンである、と例示されています。「人間や生きた存在の代理としての役割を担う」(p.123)ものであると述べられています。

 1対1の人と人との関わりのことを仮に「2.0」といった場合の「1.5」ですね。「2.0」は相互性、mutualityの関係だとされています。それに対して、父・母・子といった1対1の関係とは異なる関係を三者関係といい、数値的に表現すると「3.0」であるとされている。これは「より社会性の高い集団心理の原型」(p.119)だそうです。で、「1.0」というのは「一人だけでさまざまな幻想をめぐらす世界」(p.120)のことだそうです。なかなか面白い表現方法であります。
 
 そして問題はこの「1.5」の関係であるというわけですね。この「1.5」が日常化することで、「3.0」が衰退し、「2.0」も希薄になってきているというのが本書の分析であります。そして「2.0」も「1.5」へと進んでいるぞ、と様々なエピソードが例示されているというのが本書であります。パラサイトシングルもそうだ。終身雇用の終息もそうだ。と。その文脈の中でインタネットもケータイも語られるわけです。


 そして更に拡張して、試行錯誤とか手仕事とかしない、現実の検証を経ない建前の横行も「1.5」だということになります。マスメディアのことも書かれておられます。マスメディアは「タテマエしかいえない世界」(p.227)であり、タテマエによる扇動が行われているのですね。「1.5」を煽り立てる役割だというわけです。建前に安住しているのもまた「1.5」だ、というわけです。すぐそばで現実に起きていることを見ないんですよね。

 
 そして、どうしてそうなったかも、著者小此木さんは述べられています。それは絶筆のような凄みがあるくだりであります。そして更に小此木さんは、ネットから現実に心を引き戻してくれるパワーはどこにあるのだろう、と嘆いて本書を結んでおられるのです。2003年に亡くなられたことを考えますと、嘆きを読者に対して投げられている迫力のようなものを感じました。
 
 引き戻してくれるパワーは何でしょう?私なりに考えますと、やはり大げさなことではなく、日々の生活ですね。現場、現実、現象ということでしょうか。そしていろいろあることを、運、として受け止めることでしょうか…。そうして日常の中で例えていえば、1.6、1.7、1.71、1.72というように失敗とか試行錯誤を積み重ねてゆくようなフツーのことですね。現実はなかなかうまくはゆかないですよね。何か思いついたとしても、そのままうまくゆくことなんかないもんですよね。

 例えば現在の、私のささやかな仕事は、1企業のサラリーマンであって、製造業です。いくつかの個別で発想されている物事について、関係者でお互いによく擦り合わせから作ると便利ですよ、というようなことをしている最中ですね。やってみては失敗するわけですね。現状把握が足りませんでした、とかいうことになるわけです。頭の中で考えたことを実証するのは大変なことであります。たわいないことのようでいてそれなりに難航しています。この難航は「3.0」への難航であるのだなあ、と妙に納得しました。「擦り合せ」とか「現場での実証」って「3.0」なんですよね。だから、現代の潮流からすれば逆向しているわけですね。だからかあ、と納得。そしてだからこそ、その正当さも改めて自覚した次第であります。この試行錯誤が1.6、1.7、1.71、1.72というプロセスなわけですね。
 
 そしてそして更に個人的に申し上げれば育児プロセスですね。これは小此木さんも書かれておられます。子どもと母親が「2.0」であるという書き方で。(p.147)でもまあ、育児ってきっと否応無く「3.0」への体験でありますね。試行錯誤の世界であり、手作業の世界であり、具体的であり、本音の世界であり、生物としての自分というものを実感する世界ですね。実人生であります。
 
小此木さん御自身はこのようなフツーの地味なサラリーマンの地道な世界がご覧になる機会があったのかどうか定かではありません。フツーのことをフツーにやって、慶應病院に相談には行かないような人々。ひょっとしたら、このような精神分析の権威の方にとって、もっとも縁が遠いのはフツーのサラリーマンの目立たない人たち、サイレントなマジョリティの人たちだったのではないか、などと思ってしまいました。

小此木さんはこういうフツーの人たちに会ったとしても、やはり嘆きはつきなかったのでしょうか…
 
 思えば「モラトリアム人間」とか「ジゾイド人間」とか、この方の切り口は面白かったです。命名の名手でありますね。アジェンダを設定する才能を感じました。そしてその晩年の、この「1.5」は素晴らしいです。

 著者小此木さんに感謝申し上げます。