トーマス・フリードマン『フラット化する世界(上)』日本経済新聞出


Thomas L.Friedman著(伏見威蕃 訳) 『フラット化する世界(上)』日本経済新聞社〔2006.5〕を読みました。

 大ベストセラーになっただけのことがあります。

 メッセージが明確であります。題名通り、世界はフラット化しているのだ、というメッセージであります。地理的にも組織階層的にも平たくなっているではないかというわけですね。分業が国際的にすすみ、個人がグローバル化するのだ。というわけであります。


 そして、 
(1)それが、どういう現象に顕れているのか、
    インドのコールセンターを見よ、というわけです。
(2)なぜそうなったのか、
    10の要因があるということです。光ファイバーとインターネットだ等だ、    とのこと。
(3)どう考えればいいのか
    昔からあった最適地生産の延長線上にあることなのであり
    この方が大多数の幸せにつながるのだとのこと。
という組み立てで解明してくれます。

 そして
(4)どう行動すればいいのか、というわけであります。

 激励とともに送り出させるような気分にされます。まるでQCストーリーのように明解な組み立てであります。とても肯定的でもあります。そしてマルクスからリカルドに及ぶような該博なる教養。ウィットのセンスもすばらしく、軽妙なる一言で笑わせて下さいます。
さらに翻訳がすばらしい。名訳であると思います。

 著者に感謝申し上げます。 

 国を越えたアウトソーシング。たしかにもうどうにも戻せない流れなんでしょうね。コストが安いところに仕事が流れる。それは先進国(本書ではアメリカ)の人にとっては良いことであるのだというメッセージであります。一人のアメリカ人の消費者という側面にとっては値段が下がるから良いことなのだ。そして被雇用者という側面にとってはどうなるか。それはどんな労働者であるかにかかっているいうわけですね。だだし、労働というのは一定の塊ではない(p.368)のであり、新しい仕事がどんどん生まれるのであるとのことだ。

 読者私にとっては、本書は「分ける」という点がポイントのような気が致します。仕事という一つのつながりを「重要なこと」と「後方支援作業」とに分ける。一人の人間という一つを消費者面と労働者面とに分ける。それは可能なのだろうか?コールセンターはオフショアでいいではないか、組み立てはコストの安い地域が良いではないか、ビジネスなんだから、とそういうふうに分けられることなのかどうか。読者私としては、ここに一縷の逡巡があります。
 
 著者は、情報通信技術によって、国家や企業だけではなく、個人もグローバル化の恩恵の預かれるチャンスが生まれているのだと激励してくださっておられます。
 
 考え方によっては、ビジネスなんかナシで、慎み深く、節約をしながら、地域に即した産物を育てて、家族・親族と土地の人たちと暮らし、生きてゆくというモデルには戻れないというわけですよね。
 
 読者私と致しましては… もう戻れないのだから、これはもう肯定して、明日に向かって生きるしかないではないか、という受け止め方を致しました。

 今起きていることを解明してくれた著者には感謝致します。覚悟を決めろ、というメッセージにも受け取れました。



 

中西秀彦『活字のない印刷屋−デジタルとITと−』印刷学会出版部〔20

 中西秀彦『活字のない印刷屋−デジタルとITと−』印刷学会出版部〔2006.9〕

 職業哲学、実践的「家業」論とでも言うべき素晴らしい本であると思います。家業として、印刷業を引き受けられた方にしか書けない貴重なご意見を、このようなかたちで伝えて下さったことに感謝申し上げます。


【1】プロの話

 仕事に賭けている人の話は面白い。でも仕事に賭けている人は忙しいからなかなか話が聴けない。まれに仕事に打ち込みながらも、話上手という奇特な方が居られる。こういう型のお話からは得るものが多いので大変感謝申し上げています。更に奇特な方で、文章に書いてくださる方が居られる。いっそう感謝せざるをえません。ありがとうございます。

 著者中西様は中西印刷という印刷会社の二代目の方で「若旦那」さんということで経営者でいらっしゃいます。とてもお忙しい方であろうと容易に想像がつきますが、このような素晴らしい本を読ませて下さいまして大変感謝いたしております。

【2】ITが変えたもの、変えないもの

 ITのことが書いてあります。ITが印刷屋さんに与えている変化のことと、そして著者中西様の世代が、このITに対して、どのような位置にあるのかが書いてあります。そして何が変わったのか、何が変らっていないのか、何がなかなか変らないもので、何が変わってはいけないものなのか、そういうことへの思いを書かれておられます。軽快に書かれておられるのですが、とても深い感動を致します。プロの職業人としても、コラムの達人としても尊敬申し上げます。

 ITすなわち情報技術の利用拡大が印刷業を激しく変えているということは多くの方が述べられておられます。ITだ、革命だ、というような話題というのは、怪しい話が多いと思っています。売る側の話であったり、現実の当事者ではない立場からのお話だと感じることが多いと感じています。その点、本書はきわめて具体的に、現場で何がどうなっているのかがよく理解できます。変化の様子が現場目線でわかりやすく書かれています。商品が変わるし、工程が変わる。中も外も変わるという大変化であります。しかし、現場では、変化は一様ではない、という事実がよくわかります。まったく無くなってしまうものもあれば、一朝一夕には変らないものもあるということがとてもよくわかるように書かれておらると思いました。

【3】変わらない本質

 印刷業にとって、何が変ってはいけない本質であるのか。中西様は「組版原則」であると言われています。活版の職人の方々が、何年もの修業のうちに「指先から体の中に組版原則が染みこんでいった」(p.109)ものであり、「『読みやすさ』という観点から練りに練り上げられている」(p.109)と書かれています。この職人技こそが産業の原点なのであると書かれておられます。マックがウィンドウズに変っても、フィルムが無くなっても、活字がDTPになろうとも、ここは変らない本質であると書かれておられます。

 媒体や道具ではないのですね。読みやすさのために技を磨くこと、磨かれた技は変らないのだと理解しました。この業を営む限りは、ここにうけつぐべき本質があるのだ、と明言されておられる点に敬服致しました。

 ITによる商品の媒体や工程の道具が変わることに当事者として携わって、日々格闘されておられるところから、では変わってはいけないものは何か、とつきつめられたのではないかと拝察申し上げます。
 

【4】うけつぐもの

 著者中西様の世代が私とほぼ同じなので、世代的なお立場がよく理解できました。御自身は「露払いの世代」と言われておられます。なかなか良い命名だと思います。若き日には活版世代のお父様に対して、新技術導入推進の側に立たれていたようです。御尊父様を亡くされて十数年経過してみると、周囲には若若旦那(これも著者の御命名)というもっと下の世代が登場している。彼らは情報技術をあたりまえのように駆使している。今度は自分が古い世代になっている、と感じておられることを各所に書かれています。
 
 御尊父様が残された活版の機械を見て、工場の中に博物館コーナーを設けられたり、印刷職人の王道に敬意を表明されたりして、受け継ぐべきこと、伝えるべきことに思いを述べられているくだりは感動的であります。

 更に御子息と家庭内LANの配線をされておられる模様も書かれておられます。ここでも当事者として次の世代に伝えることを意識されてておられることがよく理解できます。


 読者私はサラリーマンでありますので、こういった著書を拝読いたしますと、『家業』というものに敬意を感じてしまいます。

 
  John Seely Brown and Paul Duguid(訳者は宮本喜一氏) 『なぜITは社会を変えないのか』 日本経済新聞社〔2002.3〕

  本書にはとても感謝をしたくなった。

  ITという言葉には、恥ずかしい響きがある。この恥ずかしさをよくわかっているひとは、ITと呼ばれている世界からちょっと離れたところにいて、バカだなあと眺めていられる。既に正解を知っている人がクイズの会場を遠めにみているような感じだ。

  ところが、不幸にして自分の職種が、ITと呼ばれている世界と否応無く関連してしまっているような人にとっては、この恥ずかしさは深刻な悩みだ。読者私はどうもそういう境遇にある。この境遇にある読者私は、やはり、この恥ずかしさについて解明をしたい。どうして恥ずかしいかを根本的に知りたい。

  この境遇にあるということは、ITと呼ばれるものから一方的に被害に遭ったとばかりは言えない。ITと呼ばれている妙な世界には、苦い思い出がある。若い時は未熟なものだから、すぐ染まった時分もある。染まっていた若い時の恥は忘れてしまいたいものだ。しかし、この恥を言わば失敗学として、解き明かしてくれるのが本書だ。感謝をしたくなる。あんな恥であっても、未来への遺産になる可能性もあるのだ、と教えてもらえると、なんだか救われるような気がした。

  嘘を嘘だと言ってくれる。こういう本には感謝がしたくなる。

  本書を読んでいると、いつの世でも、嘘を嘘だ、と説明して、人々を正気に戻すというのは学問の任務ではないか、と気づく。人を正気に戻してくれるような学問の成果に対しては、謙虚に感謝をしたくなる。

山田日登志『現場の変革、最強の経営 ムダとり』幻冬社〔2002.5〕

山田日登志『現場の変革、最強の経営 ムダとり』幻冬社〔2002.5〕

  先日、勤務先の会社で、アメリカのベンダーの方から海外の工場改善事例のプレゼンを聞く機会がありました。私は英語を聴くのが下手で、理解度としては駄目なのですが、その中にMUDAという単語が出てきて驚きました。日本語の「無駄」です。現場改善の世界でいう「ムダ」です。なんと海外でもMUDAという日本語が使われているのです。ちょっと感動しました。

 

  本書はそのMUDA取りの本であります。

【1】メッセージ拝受

 ムダを発見して、排除しよう、という現場改善の本です。効率化のマニュアル本ではないです。本書には、「ムダを排除するのは人間の能力を活用するためなのだ」、というメッセージがあります。このメッセージを、様々な現場指導の実践で裏付けながら語っておられます。とても納得致しました。著者山田様のライブでの迫力ある言葉を聞きたくなりました。


 ムダを排除する、というと、なんかきつい語感がありますが、本書の論調は明るい感じがします。おそらく、人間の能力というのを肯定されておられるからなのだと思います。せっかくの人間のすばらしい能力が、分業というシステムにせいで発揮されていないじゃないか、という主張をされておられます。

  実践ベースの人間肯定の論調に共鳴致します。とてもわかりやすいです。著者に感謝申し上げます。


【2】組み立てを堪能

 著者山田様は問題の捉え方がとても大局的な方であります。

  現在の日本の問題として「『モノづくり』をすっかり忘れてしまった日本は危ない」(p.96)と案じておられます。「もし製造業が滅びるなら、日本も滅びる」(p.97)と主張されています。わが国はものづくりでここまで来たんだ、それなのに、というわけであります。さらに広く視点を取られていて、環境問題も語られます。環境問題も著者の言葉で言えば、地球的にムダが作られている、これはムダだ、だから環境も損なうのだ、というように捉えることができるわけです。「『ムダとり』は単に生産現場だめではなく、個人を、企業を、社会を、そして地球をも救う」(p.86)と言われています。


 どうして今日を招いたのかも分析されておられます。その要因は大量生産大量消費だ、とされています。大量生産大量消費は環境を損なう。だが、それだけではない。その中から現れてきた分業というシステムが人間の能力を損なうという御主張です。

 人間の能力をもっと大事にしなければならない。そうしないと幸せにならないではないか、という考え方が著者山田様の発想の根底にあるようです。これがOSのように作用されているのだと推測致します。現場改善実践のお話、逸話等が引用されています。事例もセル生産あり、ラインカンパニー制度あり、様々です。現場から生まれた貴重なる知見も紹介してくれています。「工場を見るときは後工程から見ろ」、とか、「数字は駄目、現場を見ろ」など。貴重な教訓であると思います。


 本書の最後の方では、ホワイトカラーに対しても、現場実践の視点から、指摘をされています。

 オフィスにもサイクルタイムを導入せよ、といった提起をされています。一時、DIPSなどというものがあったことを想起致しました。

 いくつかの御指摘を読みますと、わが国は現場の力は強かったのだけれども、ホワイトカラーが駄目にしているのだなあ、と感じます。


【3】リズムを堪能

  著者山田様の論調は「これは駄目、こうしろ」という調子で、とても歯切れがいいです。これがライブではとても説得力になっていると推測致します。not何々、で、but何々という感じのわかりやすさです。


【4】私の仕事への触発

  勤務先では情報技術の社内業務利用に携わってきました。我が身には思い当たることがたくさんありました。長く、そんなことに携わっているので、著者山田様の「『現場を見る目』をもった人間こそが、製造業の主役なのである」(p.115)という言葉はよくわかります。
  
  現在の製造業における情報技術の利用というのは、妙な方向へ行っているように思います。なにか現場から離れるために情報技術を利用しようというような傾向がある気がしています。このような方向は本末転倒であるとつねづね思っています。本書を拝読いたしまして、ますますその確信が強まりました。会社人生も、かなり後半になってきていますが、「現場を見る目」を磨くための毎日でありたい。そうしなければ製造業に居る意味が無いですね。


 とてもわかりやすくて迫力がある名著であると思います。

鐸木能光『テキストファイルとは何か?』地人書館〔2001.3〕 
著者鐸木氏は「文字による文化の問題」を正面から明快に語っておられます。感謝申し上げます。この分野をこれほど明快に理解できたことはありませんでした。


 私は著者鐸木氏の主張の淵源を下記の2点の観点であると理解しました。 
 (観点1)自由度が大きいほど優れた技術だ。
 (観点2)文化・伝統を伝えることに貢献できるほど優れた技術だ。

私は、この2点のしっかりした根を著者鐸木氏に感じました。下記のような様々な課題に対して、まっとうに論じてくれています。これが実に明快であるのです。


【1】課題1;手書きかデジタルか

  文句なくデジタルと主張されています。(観点1)が作用していると判断致します。推敲の自由度もメディア選択の自由度も手書き原稿よりもデジタル原稿の勝ちとの主張であります。これは賛成致します。

【2】課題2;テキストファイルかワープロソフトか

  これも明快にテキストファイル、と主張されています。著者鐸木氏はバイナリファイルはわざわざ互換性を失わせる邪なものであると捉えられています。私はこれは(観点1)の作用と捉えました。賛成致します。手段の分際でソフトウェアが偉そうにするのは粋じゃないです。わざわざ暗号化して、解読を自社ソフトに金を払わせようという実に邪な発想です。陰険であります。

どうもソフトウェアに携わる方々には、「こいつ、一神的な邪心が宿っているなあ」と感じることが間々あります。なぜかは判りません。

【3】課題3;OSとブラウザを一体化させるな

  OSとブラウザを一体化させた巨大企業がありますが、これを悪と主張されています。(観点1)の作用と捉えました。賛成致します。素朴な利用者を自分の庭に囲い込もうという邪心であります。読者私も、この一色に塗り固めよう不自由を強いるのは悪であると捉えております。これも一神教的な邪心に由来すると思います。


【4】課題4;漢字制限を進めた1946年の官僚−漢字文化を守った国民
 
  これは著者鐸木氏は、国民の勝利と主張されておられます。(観点1)も(観点2)も、作用していると捉えました。本件は読者私も実に美談であると感じております。この1946年の当用漢字に屈しなかった我が父母の世代にも感謝したくなりました。涙が出てきます。E電騒動を想起致しました。

【5】課題5;JIS漢字83年改訂
 
  著者鐸木氏が本書でもっとも強く論撃されているのがこの83JISです。企業内に居る自分なりの比喩で申し上げれば、業務も知らずに勝手にマスタを変更したバカなメンテナンスと言えます。(観点1)からも(観点2)からもこれは巨悪であります。このあたりは自由を求める国民と漢字制限などと驕り高ぶった官僚との文化戦争の様相を感じました。憤激を著者鐸木氏と共有致しました。著者に感謝申し上げます。


【6】課題6;JIS2000あるいはそれでも足りない日本の漢字の文字集合

  「つちよし」や「はしごだんの高」については著者鐸木氏も若干迷っておられるようであります。なぜか、これらを文字コードを入れることについては、著者鐸木氏は「一蹴する気にはなれない」とやや弱気な支持であります。ちょっと意外でありました。

  ここは著者を激励申し上げたくなりました。読者私は(観点1)からも(観点2)からも、ここはJISの文字集合がまだまだ少ないのではないかと考えます。御気を強く持たれるようお願い申し上げます。

  (※読者私の感想をもっと正確に申し上げると「少ない」というよりは「上限を有限に設定するのは文化になじまない」と思っています。そこにあったように、自然にあらしめておく、というのが文化であるように思っています。上限を定めるという発想がなんか粋じゃないと思っております。文字集合の総和というのは波打ち際のように動いているものなんだろうと思います。上限の線は見えない、でもこれは文字だというのは確かにそうだ、というようなもんじゃないでしょうか。定義はできない、でも確かにそこにある、というようなもんでしょう。そもそも定義というのが粋じゃないでげすよ。)


【7】課題7;UNICODEは歓迎か

 UNICODEとは、世界中の文字を共通のコードで表わせるようにしよう、という試みであるそうです。これを歓迎するのかどうか、これは読者私は態度を保留しておきたいと思いました。保留といいながら、かなりネガティブに捉えています。まったく文化の異なる国民の文字を、形状や出自の観点から同一視することには賛成しかねます。(観点2)からです。フォントが違うからいいじゃん、というのはなんか妥協的ですよね。

  著者鐸木氏はこの課題に関しては、やや楽観的な態度を取られております。ここも(観点2)から激励したくなりました。現在の情勢では、ここまでが限界であるから、しようがなく「受忍」といったところなんでしょう。技術を担う各位にがんばってもらいたいところです。そして(観点2)はぶれてはいけないと思います。


 以上です。


 これらの課題はすべて手段と手段の比較という技術論ではなく、目的からみて手段がどうか、という問題であります。だから深遠なものであります。この深遠な問題を論じる上で、著者鐸木氏は随所で厳密な定義をした用語を使われています。このようなロジカルな姿勢は本書を美しい本にしていると思います。重ね重ね感謝申し上げます。

里見弓亨(とん)『文章の話』岩波文庫[1993.1]底本は新潮社[1937.4]

【1】感謝と恐縮

 最初は自分の好きな「方法本」の一種ではないか、と思い手にとりましたが、そんなものではありませんでした。実は不勉強で、わが国にこんな方がいらしたことを知りませんでした。このような方とめぐりあえて嬉しかったです。こんなことがあるから本を読むというのはありがたいものであります。 

  本書は文化遺産ともいうべきもので、しかも最高峰ではないか、と感じております。難しいとか高邁だという意味での最高峰ではありません。平易で明快で誰にも読めるという最高峰です。わかりやすい。こんなわかりやすい語り口は他にありません。
 
  本書のメッセージというのは、一言で言えば、「立派な文章が書きたい?それじゃ立派な人におなんなさいよ」というものです。人の道が説かれています。カタイ話ではないし、偉そうは感じもしません。そもそもこの本は「少国民文庫」の中の一巻として刊行されたものだそうであります。子供にもわかりやすく書かれておられます。比喩が多くて、それがまた粋で洒落ています。おしゃれな本でもあります。

  先祖代々が築いてきた普通の常識というものが書き留められています。しかも、穏やかで自然な語り口です。常識を伝えることは次世代への責務であることを自覚いたしました。文化の根本は「常識」にありますからね。著者里見氏に感謝致します。

  1937年、昭和12年は、こんなにすがすがしい本が出ていた時代なのですね。こんな本が出ていたわが国のこの時代そのものにも感謝したくなります。

  著者里見氏の著書はなかなか入手困難です。嘆かわしいことであります。この方の目線から現代を見るとどう見えるのだろうかと思うと、ちょっと恥ずかしくて、嘆かわしくて恐縮してしまいます。
  
 本論、中にたくさん含まれている金言、そして文章の運び方のすばらしさ、3つにわけて感謝いたします。


【2】本論

【2-1】言葉が思想、文章が思想

 文章の書き方、という問題の立て方からしておかしいと教えてくれます。言葉が思想なのだ。文章てえものは思想なんですよと。「文章の使命が思想を伝えることだ、というのは誤り」とあります。その「使命」だの「役割」だの言うからおかしいのだ、と御主張されておられます(p.151)。そういうの入れんなよ、というわけです。これは腑に落ちました。ここは力説されています。言葉で思想を伝えるという料簡が駄目、というわけですね。だって言葉は思想なんだから、と。
 
 言葉てえのは人間がこしらえたものですよ、とおっしゃっておられます。その人間がこしらえたものに使われちゃあいけませんよ、と主張されています。まっとうな常識です。重要です。

 著者里見氏の本書から70年後の現代は、人間が言葉に使われるような場面が覆っているのではないでしょうか。著者里見氏が危惧されていたとおりになってしまったのではないでしょうか。
 
【2-2】感謝から始まる

 まず今あることを感謝しなさい、とあります。誕生点という図を描かれて説明しておられます。(p.88)両親あって自分があるのであると。このことにまず感謝せよ、というわけです。ここも納得です。


【2-3】「自」と「他」という基本概念

 「あなたはあなたで、あなた以外にあなたはいません」(p.103)そういう唯一のものが「自」であると説かれています。そして「絶えず積もり重なってくるもの」(p.110)として「経験」があると言われています。これを「他」と表わされています。これらは「きっぱり二つにわけてみせるわけにはいかないけれど、しかし、その二つのものは、あることはたしかにある」(p.125)という考え方を示されます。「一にして二ならず、二にして一ならず」(p.125)名言であります。

  この「自」と「他」てえものを分けんじゃありませんよ、というのが本書のコア中のコアです。サラリーマンをしておりますと、「分析」などというと要因を分解します。そうしておいて個別に策を考える思考法が身についてしまうのですね。そうした思考法に陥っていることが自覚できました。「層別」「レイヤー」「tier」「要因の解析」「モデリング」…。分けっぱなしは駄目だと腑に落ちました。考えているときに分けているのであって、実生活では、また一つに扱わないということはよくあります。「一にして、二ならず」はその通りです。 


【2-4】「たいことをたいせよ」
  
  「たいことをたいせよ」(p.127)とあります。「書きたいこと」を「書け」と。この「書きたいこと」「内容」というのが「自」で、それは自分そのものである、と言われております。今風に言えば「メッセージ」でしょうか。
 
  ただそれを表現するには「伝統」である「文字」という表現をを使うのであると。そしてこれは「自」に対して「他」であると説かれておられます。

  いろいろと経験して「感覚、知覚、印象、経験−およそ、あらゆる「他」」(p.220)が「自」という面に投射されて、それで反射されるのだ、とされています。机に向かってからの苦心なんかじゃあ、文章はできないのだ、と喝破されておられます。本書が「方法本」ではない所以です。さあ、書こうとしてからじゃ遅いというわけです。


【3】金言・箴言に感謝

  自分に嘘をついてはいけませんよ。(p.72)というくだりはすばらしいです。現代のマスコミ、ジャーナリズムで怪しげな言説があります。いろいろと発言されている各位について、私は動機がわからないことが多かったのです。端的に言って「バカ」なのか「悪人」なのかが判らなかったのです。しかし著者里見様のこのくだりで疑問が解けました。ああ、あれはあの人たちは自分に嘘をついちゃったんだ、と。妙なのに引っかかるのもこれなんでしょうね。

全編が金言の宝庫です。やたらと漢語や英語を使ってみえをはるな(p.56)とか「よくわかっているならすらすらいえるはずだ」(p.57)とか、ごまかし、負惜しみはやめよう(p.58)とか、試行錯誤をせよ、へこたれるな、やってもいないうちからえらそうにするな、やれるようになってはじめて「知る」のだ(p.48)、など子供にも聞かせたいような金言がたくさん出てきます。そうした金言の基本には嘘をつくな、という原則のがありますね。



【4】名人の技
 
 本書はもともとは少国民文庫の一巻を形成して刊行されたとのことです。ところどころで既に刊行されている他の巻に言及されています。これは現代で言えば、サラリーマンのプレゼンテーション技を想起します。前の人の内容に敬意をこめてふれながら本題に入るというアドリブに似ています。これは、余裕、実力、腕がなければ到底できることではありません。

 本書のタイトルそのものがいいです。「文章の話」。衒わない、力まない、見栄をはらない、嘘の無い、敷居の低いタイトルです。こんなタイトルはとてもつけられません。

 比喩も図解も実に豊富でありまして、青少年にもわかりやすくなっています。「入射角と反射角」なんていう物理の比喩もでてきて楽しいです。


【5】それにしても

 このような素晴らしい方のお名前の漢字がどうして検索エンジンで化けてしまうのか。すんなり変換できないのか、なんて失礼であることか。憤りを感じました。「里見とん」では若手TVタレントのようではないですか。

  坂村健 『ユビキタス・コンピュータ革命』角川oneテーマ21〔2002.6〕

  情報技術というのは手段でありますから、目的なり問題があって、それに対して解を出すというのが使命ですよね。それこそが存在の意義であり、倫理というもの。そうであるのにもかかわらず、目的も特定しないうちから、最初から固定的な手段が鎮座ましましていて、「それありき」で「何でもできます」なんていって偉そうにしているのってのは、おかしいし醜い。そういった素朴な倫理観、美意識というものをよびさましてくれる名著です。これは美意識の本であると思います。


  サラリーマンの端くれとして、あるいは、情報技術に僅かにかすっている職種でもありますので、著者の御主張には感銘申し上げます。仕事のスタイルを変えるのに大きく役に立ちました。重ね重ねありがたい本です。


  著者坂村氏は発想の人であり、美意識にこだわる人です。コンピュータのあるべき姿というのを発想されておられます。


   コンピュータのあるべき姿として、コンピュータは露出するんじゃねえよ、と主張されています。手段が前に出てくるなってんだ、という気風です。これは嬉しいです。コンピュータが偉そうにしているなんざあ野暮なんでげすよ。なぜか、谷崎潤一郎氏の「文章読本」を思い出しました。日本語で文章を書くときは主語なんか書くんじゃねえよ、野暮くさいなあ、といわんばかりのくだりがあります。共通するのが美意識であります。要は「前に出るな」「おくゆかしくしていろ」というところ。静かにしてろってんだというわけです。著者坂村氏はマーク・ワイザーという人の言う「静穏なテクノロジー」(p.66)という言葉を引用して、解説をしてくれています。


  更に、パソコンは汎用的なのが駄目だと主張されておられます。電卓なら電卓がいいわけで、電灯のスイッチなら電灯のスイッチがいいわけです。目的に対して、最適解を提供してくれるのが技術なんだから。汎用性でございます、ってんで、何でもできますよ、というパソコンってのは厭なもんです。変に汎用的なもんだから「非常に使いづらかったり操作が分かりにくい」(p.39)というわけです。手段のくせに、手段をありきで思考するのが気に入らない、ですよね。汎用的というのはそういうことになりますよね。賛成です。そこに既にあるパソコンという変に汎用的な手段てえやつに対して、何でもカンでもやらせなければらないように発想するからいけない。そういう手段だけに長じたような妙な技術者も幅をきかせるわけなんですよね。


  目的があって、技術に機能が要求されて、で、手段のいいやつができるというのがまっとうなんですよね。機能に特化しろというわけです。汎用的なんていって「何でもできます」なんて妙なやつに、そいつにしか通じないような言葉で、頭をさげて頼むなんてのは厭な話ですよね。私たちも、多分、日ごろ、そういうことって感じているんですよね。感じているんだけれども、パソコンってあまりにもあたりまえになっているから、なんか言いづらいし、そういうふうに思うこと自体がまるでリテラシーが低いみたいに思われるのが恥ずかしいというような空気があるんですよ。でも著者のような一流の方が、ちゃんと種明かしをしてくれると心強いかぎりです。


  で、じゃあどうなればいいかっていうと、著者坂村氏は「バック・トゥー・リアルワールド」(p.43)というわけです。現実に戻んなさいな、ってことですよね。いろいろと書いてあるユビキタス技術の成果もすばらしいですが、このあたりの発想・警句が魅力的です。影響されました。早速、仕事のスタイルを変えなければならないと考えました。


  読者私が勝手に連想いたしましたのは、コンピュータの周辺に居る人々のことです。企業の中で情報技術に携わっている職種の人たちです。変な感じの仕事のスタイルになっていることに思いが及びます。変に汎用的なコンピュータというものに影響されています。妙な用語ばかり使ってね。現実世界を勉強しないで、嘘の世界に入り浸っているようなことが多いんですよね。一箇所に集中して閉じこもっているわけですから、それこそ遍在はできないわけです。ユビキタスになれないわけです。ユビキタスになるためには、ユビキタスコンピュータがあらゆるモノに組み込まれるように、業務プロセスの中に、ビジネスの中に、あちこちに組み込まれなければならないわけですね。ちりぢりばらばらに遍在せにゃあいかんわけです。私たちはエンジニアです、なんていって隅っこに固まっているんですよね。珍妙です。

  著者坂村氏の「コンピュータが人間の要求に答えるためには、現実の生活空間がどうなっているのかを知らなければならない」(p.64)という御発言がまた冴えてます。企業の中でビジネスやら業務に情報技術を活用しようと思ったら、商売やら仕事の現場を知らなければならないのは理の当然であります。このあたりまえのことに、いまさらながら強く気づきました。本書は情報技術になんらかの関わりを持つ職業人に対するメッセージになりますね。「コンピュータを徹底的に裏に隠し、その存在を感じさせないこと」(p.74)であります。


  そこでまた、奥ゆかしさ、という美意識にも通ずるわけです。能ある鷹はつめを隠すってわけですね。秘すれば花という方が近いかもしれないです。で、前に出ろ、と。現実には出てゆき、溶け込め。普通にあちこちに遍在せよ。コンピュータ技術なんか見せるなと。


  さて、本書にはセキュリティやオープンソースについてもメッセージがこめられています。ユビキタスというのはコンピュータが遍在するわけですから、セキュリティが大事になってくるわけです。そしてセキュリティを守るには秘密主義では駄目でオープンな構成でなければならないわけですね。大勢で検証できるから。そしてユビキタス・コンピューティングの便益を享受するには、社会的な基盤が必要だ、標準化も必要だ、という御主張です。もっともであります。こちらは国家レベルの話になるわけで、こっちのほうはなかなか発想の豊かな方が活躍できない事情もあるようです。坂村様の言われるように、インフラは市場にゆだねてもだめで、社会として取り組まなければならない課題だと思います。


  本書にある様々な主張には、多様性の尊重、自由の尊重、そして科学技術への信念という軸が通っています。冒頭で述べられている「八百万の神が、そこにもいて、あそこにもいて、裏のネットワークで話し合っている」(p.13)という情景が実にいいですね。


  大変影響を受けました。著者の方には重ね重ね感謝申し上げます。